郊外の絶望から、文化が生まれる

2017.1.17


都築響一

  • PROFILE

都築響一

1956年、東京生まれ。76年から86年までポパイ、ブルータス誌で現代美術、建築、デザイン、都市生活などの記事をおもに担当する。89年から92年にかけて、1980年代の世界の現代美術の動向を包括的に網羅した全102巻の現代美術全集『アート・ランダム』を刊行。以来現代美術、建築、写真、デザインなどの分野での執筆活動、書籍編集を続けている。1993年、東京人のリアルな暮らしを捉えた『TOKYO STYLE』刊行。1996年発売の『ROADSIDE JAPAN』で第23回・木村伊兵衛賞受賞。現在も日本および世界のロードサイドを巡る取材を続行中である。

1日本の6割が郊外

僕の感覚でいうと、日本の一割くらいが都市で、田舎が3割くらい。あとは郊外という感じがします。人口密度がどうとかではなくて、文化が郊外型というところが6割くらい。郊外型の文化なり日常なりというのは、今の日本で一番大きいものですよね。商店街じゃなくてイオンタウンが下支えしていたり、車はワゴンRであったり、聴くのはヒップホップだったり。

都心で生まれるものは都心で消費されて、昔はそれがだんだんと郊外に普及していくという感じだったけれど、もう違う。郊外の文化は、郊外で生まれて郊外で育っていくものだと思う。都心のクラブでかけるような最先端の音楽だって、郊外ではかける場所がない。郊外には郊外に似合う音楽があるわけで。洋服も食事もそうかもしれない。たとえば「ワインバーを飲み歩く」なんて生活のは都心じゃなきゃ無理だし。生活の質が違いますよね、全然。

銀座のユニクロと取手のユニクロで、品揃えが違うわけではない。昔は違ったわけです。都心の方が品揃えがよくて、郊外に行くほどダサくなっていった。でも今は、一緒ですから。Amazonで注文すれば同じ時間に届くでしょう、取手も千代田区も。

郊外はもう、都心に依存していないと思います。お父さんは都心に働きに来ているでしょうけど、都会が上にあって、すり鉢型にだんだん広がっていくというモデルはもう通用していない。名前は「郊外」ですけど、中心にぶら下がっているわけじゃないと思います。

2市民参加型アートなんて信じられない

アーティストと市民が一緒になってやる芸術プロジェクトというのは、正直に言って、全部きらいなんです。

なぜなら、芸術とか創作活動というのは非常に個人的なものだから。市民とアーティストが協働で何かやる、というのを僕は基本的に信じられない。市民は市民で、アーティストはアーティストでやればいい。一緒にやるなんて、ろくなことがない。市民を巻き込むというのはすごく難しいことで、たいていはただのボランティアの労働力になっている。プロのアーティストのディレクションなしで、素人たちが暴走していった方が絶対おもしろいと思います。

アーティストが地元と仲良くならなきゃいけないわけじゃない。そんなヒマがあったら一点でも絵を描けよ、と思う。そういう孤独な作業だと思うんですよ、何かをつくるっていうのは。だって地元の人と交流するっていうのは、それだけ理解者を増やしたいからじゃない?でも一緒にバーベキューをやって理解者が増えるなら、そんなに楽なことはない。作品で説得しなきゃしょうがない。稲刈り手伝ったりしているヒマないでしょう、アーティストなんだから。

郊外じゃなきゃ生まれないアートなんかない。地域性なんか無いよ、民芸じゃないんだから。だから郊外でできて都会でできない点は、大きいかどうかだけ。デカい音が出ちゃうとかさ。そういう物理的な制約が郊外の方が少ない、それだけ。郊外じゃなきゃ生まれないものなんか信用できない。もっと個人的な創作物だから、芸術作品というのは。

3絶望から文化が生まれる

郊外が生み出す文化というものはあります。でもそれは、アートとは違う。どうして(『圏外編集者』でも取り上げられている、山梨のラッパーたちのような)音楽が郊外から生まれるかというと、やっぱり郊外の方が、若い子にとって暮らしにくいからです。つまり仕事がない。ヒップホップなんか特にそうですけど、郊外からそういう音楽が生まれるのは、郊外の文化が豊かじゃないからです。郊外の方が絶望的だからですよ。別に好きだから住んでるわけじゃない、こんなところだけど住むしかない、っていう絶望感みたいなものが、新しい表現を生んだりする。

豊かだったら何かを生む必要なんかない。毎日が充実していれば。いい仕事があっていいお給料をもらって、帰りには美味しいお店があってタクシーでサッと帰れたりしたら、別に音楽とかつくる必要ないでしょう。聴いてりゃいいんだから。だけど仕事しようとしたって日雇いしかなかったり、女の子なら携帯電話の売り子か工場の仕事かデリバリーヘルスしかない、遊ぶところもない、みたいなところから表現が生まれるわけじゃない。そこを間違ってはいけないと、僕は取材してて思う。郊外から新しい表現が生まれているとすれば、それは郊外がすごく苦しい場所だからだよ。

最近ぼくは地下アイドルの取材をしているけど、地下アイドル自身やアイドルヲタというのは全員、郊外在住ですよね。都心にはいない。都心を舞台に活動しているけど、郊外から来て郊外に帰っていく。郊外の実家から1時間半とか2時間とかかけて新宿とか秋葉原のイベントに仕事に来て、終電近くで帰って、そうすると駅前までお母さんがワンボックスカーで迎えに来る。でも彼女たちは学校の友だちにはアイドルをやっていることを隠している。今、最新の女の子はアイドルなんかやりませんから。だけど秋葉原に行くことによって、同じような子たちやサポートしてくれるヲタたちがいる。だけど一人暮らしする生活力はないから、郊外の実家にいるだけ。

そういう子たちが何かを生み出すわけであって、それは「郊外の豊かさ」ではないよね。他にどうしようもなくてつくる、ということだと思う。それはひどいからなんです。自分たちの現実から逃げたくて地下アイドルになるわけ。だからアートっていうのは、苦しい人がつくるものなんだよ、もともとは。そういう意味で、郊外から面白いものが生まれてくるのは象徴的だと、僕は思う。

4郊外は圧倒的なマジョリティ

だから郊外について改めて語ろうとしなくても、郊外はすでに日本のマジョリティなんです。都会の方がマイノリティ。でも既存のメディアはみんな都会にあるから、地上波のメディアとか新聞とかばかり見ていると、自分たちがマジョリティだと思ってしまいがちなんですよ。でも実際は、逆。

地方でつくられる雑誌だって、10人集まって多数決で作ったら、美味しい無農薬野菜とか天然酵母のパンみたい内容になるに決まってる。だいたい似てるでしょう、地方の雑誌。昔からやってる豆腐屋とか、染め物をやる若い人とか、日本全国それだから。見ていて暗い気持ちになるんだよな。それはみんな、先行するいろいろな雑誌を参考にする勉強家だから。自分の暮らし方をポジティブに捉えられない人たちだよね。みんな普段はカフェ飯とか食ってないでしょう。僕が部外者として見たいのはそっちじゃない。ワンボックスカー内の装飾とか、どこでバーベキューやって何食べてるかとか、イオンの方が主役になる雑誌を読みたいよ、僕は。イオンと軽自動車とカラオケボックスみたいな、そっちの方が全然、刺激的だと思うけど。

何も「あしたの郊外」「これからの郊外」とか言わなくても、「だいたい郊外」なんだから。郊外というのは、これから栄えていくものでもなければ衰退していくものでもない。衰退していく郊外もあれば、栄えていく郊外もあるわけ。「意識高い系」じゃなくて、普通の人たちはどうしていて、どう楽しんでいるのか。自分たちの郊外型の暮らしというのを、一度見つめ直した方がいいと思うよ。

 

edit:石神夏希、中嶋希実

photo:中嶋希実

 

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