僕は小学校の全校生徒が 40 人くらい、同級生が 11 人(なぜか全員男子)の岡山の田舎で育った。そして、いまインターネットに関わる仕事をしている。
インターネットは無限に広がり続けている空間だ。そこにみんなが限りなく自由に、ドメイン(.com や .jp)と呼ばれる地名・屋号をつけ、「機能と役割」を定義したウェブサイトやアプリを立ち上げる。マイホームを建てたり、分譲住宅に住んだり、路面店を出したり、図書館や公民館をつくったり、大規模商業施設を建設したり。人が創造したインターネットにありながら、ある種の「自然」をつくり出そうとしたり、そして、インターネット以降でしか実現できなかった「機能と役割」を生み出したり。
そして、インターネット上でも同様に、その「機能と役割」に出合った文脈や、「機能と役割」毎の繋がりの質と量が、わたしたちの経験や記憶に刻まれる強さとなる。例えば、子どもの頃住んだ街のよく遊んだ公園のような、一人暮らしを始めたころの最寄り駅のホームような、出張先でみつけた路地裏の居酒屋のような。そんな経験や記憶として刻まれる「機能と役割」は、インターネットの中にもあるはずだ。
ここ最近は、田舎育ちの僕からすると、田舎がこそばゆいほどの好奇の眼差しを浴びている気がする。そして、その多くは「都会から見た田舎の機能と役割」として編集された「田舎」だったりする。僕は子どもの頃旅行に行くと、都会に憧れるには、目に映るものすべてが都会の入口に思えた。そこが郊外と呼ばれる場所であっても。僕にとっての「田舎から見た都会の機能と役割」を満たしていたからなんだと思う。
そんな僕にはまだ「僕にとっての郊外の機能と役割」がわからない。だが、ある郊外の街と出合うとき、インターネット上での既視感がひょっとすると手がかりになるのかもしれない。インターネットを彷徨いながら、そんなことを考える。きっと「僕にとっての郊外の機能と役割」に出合える文脈があるはずだ。