郊外を解きほぐす、あたらしい身体性

2016.7.27


栗栖良依

石神夏希

森司

  • PROFILE

栗栖良依

イタリアのドムスアカデミーにてビジネスデザイン修士号取得後、東京とミラノを拠点に世界各国を旅しながら、さまざまな業種の専門家や企業、地域コミュニティを繋ぎ、商品やイベント、市民参加型エンターテイメント作品をプロデュースする。2010年、右脚に骨肉腫を発病し休業。翌年、右脚に障害を抱えながら社会復帰を果たし、横浜ランデヴープロジェクトのディレクターに就任し、スローレーベル設立。ヨコハマ・パラトリエンナーレ総合ディレクター。

石神夏希

劇作家。1999年、演劇集団「ペピン結構設計」結成。近年はテナントビル、住宅、商店街などでのサイト・スペシフィックな演劇上演、横浜、北九州、高松、マニラなど国内外でのアートプロジェクトの滞在制作、建築・不動産・まちに関するリサーチや執筆・企画など、「場所」と「物語」を行き来しながら活動している。企画・執筆に関わった著書に『Sensuous City [官能都市]―身体で経験する都市;センシュアス・シティ・ランキング』(HOME’S総研)など。2016年、横浜伊勢佐木町にクリエイティブスペース「The CAVE」をオープン予定。http://natsukiishigami.com/

森司

東京アートポイント計画ディレクター

1960年愛知県生まれ。公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京事業推進室事業調整課長。東京アートポイント計画の立ち上げから関わり、ディレクターとしてNPO等と協働したアートプロジェクトの 企画運営、人材育成プログラムを手がける。2011年7月より「Art Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業)」のディレクター、2015年よりリーディングプロジェクトディレクターも務める。

13年かけて、100人に届くこと

栗栖:石神さんの事務所はこのあたり(「象の鼻テラス」のある横浜市中区の港湾エリア)なんですよね。

石神:2015年9月まで馬車道にいました。今度は伊勢佐木町に拠点をつくろうと計画中です。

森:地方だけじゃなく、横浜でも企画をやっているんだよね。

石神:はい。2015年は緑区で開催されたスマートイルミネーションみどりと、本牧アートプロジェクトの2つに参加しました。どちらも、横浜の郊外エリアですね。

森:本牧でやった『ギブ・ミー・チョコレート!』(2015年12月)はどんな作品だったの?

石神:本牧のまちの人たちで秘密結社をつくる、という企画です。口コミだけでメンバーを増やして、3週間くらいで30名弱の人が集まりました。そのメンバーたちがそれぞれ、まるで普段通りに暮らしているかのように、まちに紛れ込んでいる。家や職場だったり、よく行く場所だったり、自分の生活や記憶に関係のある場所にいる。作品を体験する参加者は、指示書をもとにメンバーを探してチョコを受け取るというルールです。チョコを受け取るために必要な合言葉や手続きは、一人ひとり違います。3人のメンバーに会うと「楽園」と呼ばれる場所への行き方を教えてもらえる。「楽園」は地元の常連さんだけが集まる秘密の場所で、結社メンバーたちの個人的なエピソードが集められた本を読むことができます。

森:なぜチョコだったの?

石神:本牧はもともと米軍に接収されていた土地で、今回の結社メンバーの中には、実際に子どものころ「ギブ・ミー・チョコレート」と言っていた70代の方もいます。楽しい思い出として記憶している人もいるし、本牧の負の歴史でもある。一方で、返還後に開発されたニュータウンに入ってきた新住民の人もいるし、返還前後の空気を知らずに育った中学生くらいの子もいる。そういういろいろな層の人たちが、歴史に押し付けられた言葉を逆手に取って、自分たちでその言葉を使って遊ぶことをしたかった。個人的には、口コミでメンバーが増えていく過程や、自分で場所を交渉して見つけてくるメンバーがいたり、私が言っていない演出を勝手にやってくれている人がいたりしたのも面白かったですね。

森:これは演劇なの?

石神:はい。参加者には最初に「これは、あなたとメンバーとの共犯関係で上演する演劇である。一期一会を味わうこと」と伝えています。参加者とメンバーの間であらかじめ決められた手続きをしないといけないんですけど、「周囲にさとられてはいけない」というルールがあって、ミッション通りにやらないとメンバーは答えてくれないし、チョコももらえない。

森:参加者は何人でもいいの?

石神:メンバーは日替わりですが、同時多発的に3人×6コースが起動していて、18人のメンバーがまちに潜伏していました。参加できる人数は一回最大50~60人で、2日間開催しました。

森:じゃあ100人だね。「百人」という単位は面白くて。そういうマイクロな単位ってすごくいいと思うんだけど、それより大きいのはつくる気がないのかな。

石神:そうですね。自分で全員に会いに行くから現実的にそういう規模感になる、という面も大きいですけど。

森:栗栖さんは「一万人」の方でしょ?

栗栖:私は無限に増やしたい方ですね。なるべく大勢の人。でも今は、場面によって人数を絞ることもできる。二人、三人、と増えていくパターンだから、自分が接する人数には限界があります。でも、どんどん巻き込みますね。

森:企画をやっているのは、自分が親しんでいるまちなのかな。

石神:本牧に関わり始めて今回が3年目だったんですけど、キーマンがどこにいるかとか、人のつながり方とか、3年いたから見えてきたところは大きかったですね。

栗栖:私も住民を巻き込む作品の時は、3カ年計画です。最初の年は友達をつくったり、まちを下調べするところから入って、2年目に何となく計画を立てて、3年目に実行。知らないまちでやるときは、だいたいそのくらいのスピード感でやらないとうまくいかない。

森:その時間は、かかっているの?かけているの?

栗栖:かかっちゃう。急ぐとやっぱり、やれることに限界がありますよね。

森:でも、それ(3年かかること)がわからない人と仕事しなきゃいけないこともあるよね。そういう時はどういう風にしているの?巻き込むか、諦めるか。

栗栖:私にミッションを与える立場のクライアントには「3年かかる」ということをわかってほしい。でもそれ以外の人とは、それこそ一期一会の出会いを繰り返しながら仲間になっていくので、必ずしも全員にとって3年かかるというわけではないですね。

森:その「3年計画」をチームの中で共有できていると、共犯関係ができるじゃないですか。コアになる人と共有はしているの?

栗栖:いや、3年かかるとは言っていないですね。自分の中では、だいたい3年くらいの構想を立てますけど、周りの人は目の前のことをこなすことで精一杯だから。

石神:私の場合、もちろん劇団のメンバーは理解しているし、そういう創作環境をつくろうとしています。ただ地域のパートナーとはすり合わせが必要ですし、場合によっては「今おっしゃっていることは、今年はできないと思います」という話をすることはあります。

森:地域の人は、早く成果がほしいわけね。

石神:早くというか、地元で動いてくれる人たちは地域内の立場や周りとの関係性もあるので「自分たちも協力したいけど、このくらいの成果を出さないと周りに理解してもらえない」というプレッシャーがかかることもあります。最初は何も期待されていなかったのに、後から助成や支援がついてきて周りからの期待が高まってくると、立場的に私たちよりも焦らされてしまう、というのはあると思います。

2無色透明な存在として、つなぐ

栗栖:石神さんは、高松で『パラダイス仏生山』というプロジェクトもやっていますよね。私も徳島県の神山町で作品を作ったり、拠点を持ったりしているんですが、どうして仏生山でプロジェクトをやることになったんですか?

石神:最初は本当にたまたま、仕事で行ったんです。それで「このまちなんかいいなあ」と思って、関東に戻ってから「面白かったから一緒に行こうよ」とまわりの人を誘って13人くらいで行きました。ただ旅行と言うとつまらないから「リサーチ」と称して。「なんとなく面白いけど、いったい何が面白いんだろうね?」というリサーチ。

森:すごい人数で行くね。「私が面白いと思ったのはなんでだと思う?」という答えを十何人かで探そうとしたんだ。

栗栖:私が『B-e-e-e』でやっているのも、まさにそういう発掘作業ですね。仲間たちを連れてまちを訪れて、いろんな専門分野の人たちの感覚を使って掘り起こす。そしてアウトプットのところはもう、各々に任せてしまう。そこまで全部責任を取っていると、しんどくなってしまうから。

森:ふたりは、普通に生活している人たちの日常に入っていくじゃない。そうすると、そこに住んでいる人は変わるんだろうか?

栗栖:変わると思う。でも、変えたいと思っているわけじゃないですね。私は、自分は種まきをする人だと思っています。何かしらそれぞれにとって新しいきっかけが芽生えればいいな、と思ってやっているので、その種が何の花を咲かせるかまで、私は描かない。

森:その種が何の花になるかは知らないの?

栗栖:知っていることもあるけど、毎回、私の予想通りの結果になると面白くない。たとえば「あの人とあの人が出会えば、こんなことができるだろうな」という予想はできます。でも「これをやるために出会って下さい」みたいなことは言わないです。

森:アーティストの藤浩志は“「種をまく人」「水をやる人」「太陽の人」「風の人」とかいろいろ違う役割がある、そういう役割のリレーがないとできない”と言っていますね。じゃあ栗栖さんは、種をまく人という自覚があるんだね。

石神:私は、栗栖さんみたいに任せきれないかも。手放し方がすごいなと思う。「こうなってきたんだ、いいねいいね」とか言って、自分も混じりたくなっちゃうんですよね。本牧ではだいぶ手を放してお任せできるようになったけど、それでも現場に行きすぎちゃう。どこで手放すのか、手放さないのかというのは、いつも考えることです。

森:栗栖さんは、手放せる人だよね。オリンピックの開会式をやりたい人だから。

栗栖:最初にそのスケール感で(この世界に)入ってしまって、「それをやるにはどうしたらいいんだろう?」という逆算から、今までの人生を生きてきたので。

森:最初に思ったのはいつ?

栗栖:16歳か17歳。7歳の頃から創作ダンスをやっていて、中学・高校は勉強しないで、作品をつくるためだけに学校に行っていたような感じでした。学校の中に劇場をつくっちゃったり。だから、もう将来はそっちの方向へ進む、と決めていたんです。高校生になって、大学どうしようかなと思っていた時にリレハンメル・オリンピックを見て「あ、これやりたい!」と思って。

森:そう聞くと、栗栖さんにとって(巻き込む人数が)広がっていくことは当たり前だね。

栗栖:だから5人が舞台に上がる演出は磨いてきていない。5千人、5万人という規模を演出する技術を習得しようと思って、やってきたんです。

石神:栗栖さんがやりたいことは、商業演劇とかショーとはどう違うんですか?たとえば、芸能人が出るような。

栗栖:リレハンメルを見て「これをやりたい」と思ったのは、市民がいっぱい出ていたからなんですよ。プロのパフォーマーを1万人集めてあの絵を作っていたわけじゃなくて、お年寄りから子どもまで、地域の住民がみんなでショーを作っているのが面白いと思った。だから、市民を巻き込むパフォーマンスの作り方を研究してきたんです。

石神:それは、関係のありそうなことを自分で学びながら編み上げてきたんでしょうか。

栗栖:どの学校で学べることでも、どの会社に入ってやれる仕事でもなかったので、自分なりに「これをやったら近づくんじゃないか」というものをひたすらやってきましたね。大学でアートマネジメントを学んだり、イタリアでもビジネスデザインという、一番マクロな絵が描ける分野を選んだり。

石神:今、その目標にはだんだん近づいている感覚がありますか?

栗栖:それが、そうでもないんですよ(笑)。実は2010年に病気をして、人生を一度リセットしてしまっているのが、結構大きくって。

森:今はどんな感じなの?

栗栖:自分が病気になって本当に死にそうになったとき、「夢を実現するために、今がんばる」みたいなことが、馬鹿らしくなっちゃったんですよね。そこで「今を生きよう」という方向に価値観が大きく変わりました。その後社会復帰して、ご縁があって今関わっているスローレーベルや横浜のプロジェクトをやらせてもらうようになったんです。やっぱり自分はパフォーミング・アーツが好きだし、モノをデザインするよりコトをつくる、体験や環境をつくることの方が好きなので、担当するプロジェクトも自然とそういう風になってきました。

それと、2012年のロンドン・パラリンピックの開会式を見た時に、すごく面白かったんですよ。自分が障がい者になって初めての開会式だったし「これはオリンピックよりパラリンピックの方が面白いかも」と思って。その時点でまだパラリンピックが日本に来るかどうか決まっていなかったんですけど、「じゃあ、パラリンピックが来た時に何ができるかな」と考えながらそれ以降の活動をしてきた、という感じですね。

石神:4年後ですね。

栗栖:今は「生かされている」という感覚が大きいので、自分がやりたいことをやるというよりは、「神様に言われたことをやっている」という感覚なんです。たしかにオリンピック・パラリンピックに関係することをやろうとはしているんだけど、そのモチベーションはもう、自分の夢を叶えるためではなくて。「私はこれをやりたいんだ」というのは、あまりない。

石神:天命。

栗栖:うん。不思議な感じで生きているんですよね。

森:野心じゃないんだね。

栗栖:昔は、野心だったんです。そのせいで病気になって、死にそうになったと思っているので。病気で捨てざるを得なくなって、捨てた。だから、メディアで紹介されるときにはよく「昔リレハンメルを見て、ずっと夢だったから」って書かれちゃうんだけど、昔と今では動機が全然違うんです。

森:「野心が病を呼んだ」と言ったけど、栗栖さんはそうやって自分の意志にならないものを引き取る、それと向き合う、ということをしたわけじゃないですか。そうすると、人をつなぐときも、ディレクションの仕方が変わるでしょう。

栗栖:変わりましたね。昔は、自分が無色透明なことは意味がないと思っていましたから。

森:たとえば病気がわかる直前に十日町でやった『しゃったあず・4』という映画の時は、かなり意識的に栗栖さんのビジョンに沿ってやっていたでしょ。

栗栖:やったし、「私がやりました」と言わないと存在価値がなくなってしまうと思っていましたね。私が企画して立ち上げて、まちの人との関係性とかも全部つくったけれど、やっぱり取り上げられるのは映画監督とか脚本家だった。企画した私の存在はどこにも取り上げられなくて「こへび隊の方ですか?」って聞かれる、みたいな感じだったんですよ。でも今は「別に自分の名前が出なくたっていいや」と思うようになりました。そうしたら逆に出るようになっちゃったけど。

森:今の方が全然、売れてるじゃん(笑)。

栗栖:今は「やることさえきちんとやっていたら、わかってもらえるんだ」と思えるようになったし、時代も変わった。昔は分野と分野をつなぐ仕事って、認められませんでしたよね。必ずみんな所属や専門分野があって「肩書がなかったら存在しない」という感じだった。でも今は各分野が行き詰まっているから、それらをつなぐ役割の重要性が認識されるようになったし、つなぐことで新しいものを生み出せる役職にスポットが当たるようになってきた。

森:プロセスそのものが価値対象になってきたというのも、大きいと思うよ。昔は成果としてのモノがなきゃいけなかったけど、プロセスがあればいい時代になってきた。そういう流れが一番大きいと思う。

僕が昔キュレーターとして個展をキュレーションしていた時も、アーティストの方がメディアに出ていた。ところが美術館をやめて街場に出て本当に黒子になったら、今度は「オペレーションしているのは誰だ」ということが注目されるようになって、むしろ存在がはっきりしてきた感覚があって。それは時代の流れとして、ある気がしている。

石神:私はアーティストという立場でずっとやってきたんですけど、まちでやるようになって、いつも思うのはやっぱり「無色透明になりたい」ということ。「透明になれ」って自分に言い聞かせながら、やっていますね。

3流動的な「中心」のありか

森:ふたりは、ある大きな価値観のもとに動いていると思う。規模の大きさや小ささはスタイルの問題で、でも基本的には似ている。ブリッジをかける、ある流動体の価値観みたいなもの。それは、郊外に対してネガティブでもポジティブでもない、という感覚にも引き取れる気がするんですよ。「郊外」は長らく中心に対する周辺、「中心ではない」とされてきた。その前提にあるのは、中心に向かうベクトルですよね。一方でここまでの話では、流動性こそが重要であり、ベクトルの方向は一方向ではない。そういう感覚の世代からすると、郊外にはノスタルジックな意味もなければ悲壮感もなく、「郊外は隙間がたくさんあっていいよね」とか「東京は大変だよね」といった発想が出てくる。「中心が絶対ではない」という感覚があるかないかで、郊外へのアプローチが変わると思うんです。ふたりの表現者としての所作も、中心があるようでないじゃないですか。それは、元からそうなの?

栗栖:私は、中心がないと思う。一カ所に留まらずにふわふわと旅している。昔から、そうですね。

石神:中心は定まっていないということですね。

栗栖:ない。あえて言えば、動いている自分自身が中心というか。

森:その日、スタートする場所が起点でしかないんだね。これ(本牧の作品)も中心がないじゃない?舞台もないし。ふつう演劇っていったら舞台と観客の間に「第4の壁」というのがあって、中心はないにせよ構造ははっきりしていて、振る舞いがすべて決まっている。

石神:そうですね。結社のメンバー同士も、お互いを知らないんですよ。

森:そういう意味では、中心性も消失させている。存在すら消している。でも行為の応答性だけは、たとえば「山」「川」と言ったらコトが動くという意味でのコミュニケーションはあるわけじゃないですか。でも、身体性を消すというのは面白いなと思って。

栗栖:私のスタイルも、「見る・見られる」の関係性を曖昧にするというのがすごくテーマになっています。阿波おどりとかわかりやすいと思うんだけど、見る/見られるの関係性が曖昧で、踊る阿呆に見る阿呆、どっちが中心か分からない。私はああいうのが理想形で、アーティストがつくった仕掛けがあって、スタッフもいるし参加者もいるし、障がいがある人もない人もいろんな人がいるんだけれど、みんながフラットな関係で、パフォーマンスにも見えて、こちら側から見ている人もパフォーマーのような、あいまいな空間でやっている。自分があちら側に入っていることもできるし、すぐ出ることもできる。そういう意味では、中心がない。

森:街場でやるとそうなるよね。ハコでやらない限り。ふたりは自分の意思で街場に出るようになったのかな。

栗栖:私は早々と劇場から出たタイプ。まちや劇場の外にいる人たちに、自分から会いに行こうと思った。劇場とか美術館の中でやると、それに興味がある人が来るのを待ち構えるしかない、というのが、待っていられなくて。

石神:時代の流れもあったと思います。私たちの劇団は(2015〜2016年に馬車道にあった)北仲WHITEにいたのが大きかった。古い空きビルの一室でパーティやったり人に貸したりしながら、1年半かけてアトリエ、劇場へとだんだん改装していって、同時に作品が立ち上がっていき、最後に公演をやって、ビルごと壊される。そういう流れに普通に入っていった。劇場からまちへ出るということが、自然な流れでした。

森:今「演劇」という言葉を使ったんだけど、そういう振る舞いをするのに、演劇という言葉は不自由なの、自由なの?栗栖さんはどう?

栗栖:私は「ソーシャルエンターテイメント」あるいは「住民参加型エンターテイメント」と言っていますね。アートというより、エンターテイメントなんですよ。

森:プロである必要はないんだよね。

栗栖:私はあまりプロにこだわらないですね。限られたプロでハイレベルなものを目指すのは私の仕事ではないな、っていうのがあって。大人数の市民が参加することによって、それぞれに新しい発見につながるようなことに興味がある。

石神:私は「演劇」という言葉を、意識的に使うようにしています。

森:でも、ハコ公演の演劇とは違いますよね。

石神:「演劇」と言いながら、いかに演劇をやっていない人とやるか、演劇をやらない場所でやるか。そのためにあえて「演劇」と言っていますね。今の演劇は「見る」という要素が強すぎる。でも本当は、演劇の半分は「やる」だと思っていて。「見る」と「やる」が交換可能なジャンルだったはずだと思うんです。

栗栖:それはまさに、「境界線があいまい」というイメージですよね。

石神:そうですね。それが私にとって理想の「劇場」みたいな関係性で、そのために「やる」人を増やすのが、自分のパートというか。なるべく演劇をやったことない人、興味のない人がその気になるようなことをやりたい。

栗栖:それは、演劇の面白さを伝えるためなんですか?

石神:そっちが自分にとっての演劇だと思っている、ということですかね。「演劇は面白くない」と思っている人に対して「ここ(プロセス)に参加してないから楽しくないんだよ」という気持ちもあります。「そりゃ、そこ(結果)だけ見てたら面白くないさ、よっぽどレベルが高くないと…」みたいな。でもプロセスが実は結構楽しくて、しかも一ヶ月とかある。そこに参加しないのはもったいないし、演劇が持っている価値のひとつだと思うんです。

森:じゃあ、演劇を解体している気はないんだ。もろ演劇なんだ。

石神:そうですね、演劇の神様のためにやっているというか…。だから地域でやる時も、地域の人たちに「皆さんの目的は地域のためかもしれないけど、私たちがやるのは演劇の神様のためだから」って。目的は違っても、やりたいことが合致していれば、一緒にやったらいいと思うんですよ。

森:ふたりとも、神様のためなんだね(笑)。

石神:私には、啓示は降りてきてないですけどね(笑)。(アートプロジェクトを地域でやるにあたって)最終的に目指すところは、みんな同じじゃなくていいと思うんです。やっぱり地域をフィールドにしようとしたら、地域のためになることを求められたりするし、自分だって目の前の人に応えたいという気持ちが出てくる。でも「地域のためにやってるわけじゃない」って一線を引かないと、わけが分からなくなっちゃいますよね。

森:それは、日常に飲み込まれていくということなの?

石神:自分がそこで果たすべき役割が果たせなくなっちゃうから。私がもたらし得るものをもたらせなくなっちゃうので、申し訳ないけど、そこは応えられないけど、結果的にそれがお互いのためですよ、って話します。

栗栖:潔いですね。それで相手は納得してくれるんですか?

石神:いや、納得しているかはわからないです。「よくわかんない」と思っているかもしれませんけど、繰り返し言っていく。でも耳を傾けてくれるということは、いい人たちとやれているんでしょうね。

森:言う戦法なんだね。栗栖さんは、言わない戦法だよね。

栗栖:私は言えないですね、そんなことは。言った瞬間にシャッター下ろされる気がする。

森:小さい単位ではそこを共有してないとやれないけど、大きくなればなるほど、今度はそれを共有していると身動きが取れなくなる。また別の何かでつながっていないと無理、というのは、わかる気がしますね。

4移動と越境

栗栖:私は、あんまり「郊外」というものにそんなに興味はないんです。取手なのか、他のまちなのかによって違うと思うから、「郊外」という一つの単語で片付けようがないというか。『あしたの郊外』で興味が湧いたかと聞かれれば湧いたけれど、それはあくまで取手に対する興味であって、郊外に対する興味ではないな。

石神:何を「郊外」と考えているかも、人によってだいぶ違いますよね。私は自分の育った鎌倉を、ずっと郊外だと思っていたんです。都心まで通える距離で親がマイホームを建てた、みたいな、ある時代のフォーマットの中に自分を位置づけていた面があった。でも学生の時に初めて幕張を見て「シムシティみたい」とびっくりして、この風景をふるさととして育つ人の感覚ってどんな感じだろう?と思いました。いいとか悪いとかじゃなく、取手と幕張でもずいぶん違うし、それらを「郊外」とひとくくりには、なかなかできないですよね。

森:『あしたの郊外』の公募で、ペピン結構設計取手と徳島をつなぐプランを出してくれたじゃないですか。でもあれは、単に二拠点間を移動して暮らそうという話じゃないよね。本当の狙いはどこにあったんだろう。そもそも、どうして応募したの?

石神:「あしたの郊外」という言葉が響いたんです。

森:それは演劇的に響いたのかな。タイトル勝ちだな(笑)。

石神:それもありますね(笑)。でも、問いじゃないですか。「あしたの郊外」という問いが、答えてみたい問いだったんですよ。だから最初は何も思いつかなかったけど、とにかく考えてみて、とりあえず〆切までに出した答えが応募したプランです。でもその企画を出したかったわけじゃなくて、ただ考えてみたかったんです。

森:それを栗栖さんは評価していたでしょ?

栗栖:正直、舟はちょっと良くわからなかったんだけど(笑)、でも2つのまちをつないで、交易が行われることの面白さとか発展性はあると思った。企画上では取手と徳島をつなぐ、ということになっていましたけど、東京以外のところとつないで何かをやるというのは、面白いんじゃないかと思ったんですよね。

石神:郊外が「郊外」と呼ばれるゆえんが、東京と鉄道で結ばれる関係性だとしたら、それをもっと時間のかかる水運を使って別の地域とつないだときに、郊外ではない別の場所になり得ると思ったんです。その2つの場所が同じ響きの名前を持っているとか、同じお祭りを持っているかもしれないとか、そういう想像をしてみると、取手が「郊外」という枠からもっと自由になるんじゃないか、と。だから「二拠点で暮らそう」という趣旨ではなかったですね。

森:たぶん東京から3時間かけて移動することになると、「郊外」じゃなくなるよね。距離感的に。

栗栖:3時間あったら他の国に行けますからね。

森:常磐線沿線には上野と取手の芸大校地の間をつなぐ「JOBANアートライン構想」というものがある。北千住にも芸大がありますね。上野から北千住が、だいたい10分。北千住から松戸も10分なんだけど、その間に川がある。そして川を越えるごとに、カルチャーが変わっていく。「カルチャーは川を越えない」という感覚が、僕にはある。電車でそれぞれ10分しか違わないのに北千住は23区で、松戸は千葉。その物理的な距離と川の分断性は、都内を移動しながらいつも感じている。

石神:たしかに川の存在は大きいかもしれない。

森:でも松戸とか柏の人は、自分たちが郊外だとは、あんまり思ってないと思う。

石神:そうなんですか?

栗栖:郊外だと思ってた。

森:(ふたりにとっては)かなり郊外なんだ。何が決定的に違うんだろう。

栗栖:ベッドタウンで、同じような家がいっぱい建ってて、紳士服のAOKIとか吉野家とかがバーっと並んでいるような国道が走っていて、車社会で…。でもたしかに柏も松戸も、駅周辺がかなり開発されてきていますよね。「柏の葉」とか進んだ取り組みもして、おしゃれな感じをバンバン出している。

森:柏の葉は、それこそ都市をつくっているから。だから新住民しかいない。電車が通ったから、駅をつくり、街をつくっている。シムシティですよ。そのために文化を入れている。本来、時間は蓄積していくものだけど、まちの持っている時間を人工的に用意する。けれどベッドタウンとして「郊外」に入ってくる新住民がいる一方で、そこをふるさととして生まれた世代が育っていく。そのへんが、にじむじゃないですか。取手なんかまさに、そういう場所ですよね。もともとの地主の人たち、いわゆる旧住民はまた違いますけどね。

石神:積み重ねが。

森:やっぱり違うみたい、土地に生きている人は。

石神:大田区に住んでいる栗栖さんにとって、多摩川の向こうは郊外ですか?

栗栖:わかんないです。川の向こうは、なんにも考えたことがない。小学校の時から一時間くらいかけて電車で通っていたから、自分の生まれ育ったまちにそこまで思い入れもないし、友達もそんなにいない。

石神:その感覚は、自分が飛び回っていることに関係があると思いますか?中心がなくてもいられることに。

栗栖:あるかもしれないですね。自分の家が品川駅と羽田空港に近いっていうことも、何か運命を感じる(笑)。病気がなければ、都心部の地下鉄とか、公共の乗り物で都内をぐるぐる動き回っていたから。でも今の自分はもう、都内を動き回る気なんてさらさらなくて。すごく動きづらいから、飛行機に乗ってどこか広いところに行きたくなっちゃう。そのほうが楽というか、バリアフリーなんですよね。好奇心旺盛だし、1カ所にずっといられない。常に何か新しいものとか、美味しいものとか食べに行きたい。

森:ノマドなわけじゃないでしょ?

栗栖:でも昔から、いつも「自分が生きていく土地は、ここじゃない」と思いながら旅しているところはあります。自分が定住する場所を追い求めて、あちこち旅しているような。

森:でも、まだ出会ってないんだ。

栗栖:出会ってないか、そろそろ出会ったかな?という感じ。

石神:定住はいずれしたいと思っている?

栗栖:うん。ただ自分が生まれ育ったまちではないな、と思う。他の国なのか国内なのか、それもわからずさまよっている。

森:そういう意味で、自分が生活しているところにしっくり感がある人はいいよね。郊外の人はどうだろう。「暫定」感があったりするのかな。

石神:今30歳くらいの作曲家で、東京の多摩市で生まれ育った子と震災直後に話をした時に、「僕の音楽は、多摩の人だけに伝わればいいとわかった」と言っていたんです。駅前のそごうのイルミネーションが一番ノスタルジーを掻き立てられる風景だと言っていて、そういう人たちが郊外をポジティブに読み替えていくのかなと思いました。多摩ニュータウンが、彼に音楽をつくらせている。

森:日比野(克彦)さんが、東北の復興支援の活動で、仮設住宅にマグネットを貼るワークショップをやったの。そうしたら、もうじき仮設から引っ越す高校生が「大人たちは仮設、仮設って言うけど、自分の記憶の中ではここが家なんだ」って。彼女にとっては小学生の頃から4〜5年暮らしてきた家だから、その家から引っ越すイベントがしたいって、日比野さんを呼んだの。日比野さんはそれに付き合って、その家での暮らしを終わらせて次へ行く、という作品をやってますね。

石神:そこで生まれた子どももいますからね。

5多様な身体性で、郊外を読み換える

あしたの郊外スタッフ:地域でアートプロジェクトをやるときは、終わりを決めているんですか?

石神:そこはね…終わりは、決めてないですね。

森:でも、終わりは来るんだよ。

石神:そうなんですよね。

森:人間ね、飽きる生き物だからね。

石神:だから地域のパートナーが「いつまで来てくれるのか」とか「この後も継続的に関わってほしい」と言ってくれることもあるけど、「きっとこのまま続いたりはしないだろうな」って、期待しないようにしているところはある。可能性がないとは言えないですけどね。

栗栖:私はイベント屋なので、わかりやすいゴールがあって、パッとやらないとダメ。自分にはプロダクトができない理由は、そこなんですよ。プロダクトは、売り続けなきゃいけないのがしんどい。「公演」とか見せる日が決まっていて、終わったら、おつかれ!って言えるほうが好き。

あしたの郊外スタッフ:「郊外」も、人が集められた場所、という意味では、似ているのかなと思って。

石神:アートプロジェクトに関して言うと、ある蜜月関係みたいなものに賞味期限がある、という感じじゃないでしょうか。いつかこの恋は終わるというか…いつまでもこれが続くわけじゃない、それが普通だし、むしろいいことだと。ただそれが、ぐだぐだーっと終わるのか、バツっと終わるのか、いい終わり方は何なのか考えないと。

森:シュリンクしつつあるものに対して、「そんなにノスタルジックにならなくてもいい」という意見も、「そんな勝手なことしないでくれ」という意見も、両方あるのは仕方ないと思うんだよ。(郊外がつくられた時には)想定されていなかったものじゃないかな。

神山の大南(信也)さんも、シュリンクしつつあったものを「こういう風にキープしたい」という夢とロマンで動いていて、今ああいう状態をつくっているじゃないですか。それが社会的にすごく評価されているけど、違うタイプの価値観も、違うタイプの終わり方もあり得るだろうとは思う。彼らにしかできなかった成功スタイルをみんなが真似なきゃいけなくなるような物言いは、クリエーションとしても価値観のもっていき方としても残念できれいに終わってもいいし、もっと違う展開もあってもいいだろうな、と個人的には思っているんだけどね。

たとえば北海道出身のアーティスト・川俣正さんはいわゆる「ボタン山」といわれる炭鉱の出身で、まちがすごい勢いで栄えて、それがある日シューッとなくなっていくのを目の当たりにしている、と語ってくれたことがあるんです。そのせいか川俣さんは「始めて、無くなる」ことを平気でやる作家じゃないですか。しかもまち的な、1分の1のスケールで。「まちは始まって終わるもの」ということが、価値観じゃなくて身体的に入っている感じがする。今の栗栖さんの話も、価値観じゃなくて身体的な話だよね。

石神:そもそも栗栖さんは、どうして「郊外を考える人」を引き受けたんですか?

栗栖:取手アートプロジェクトは前から知っていたけど行ったことがなかったし、面白そうだなと思ったんです。そんなお題でも与えられなかったら、郊外について考えることないな、と思って。

石神:森さんが、栗栖さんに期待していたことは何ですか?

森:本人の身体的な変化が、コトへのアプローチの変化にも当然つながっていて、そういうことも含めて、郊外を考えるときには必要だと思ったからかな。

石神:栗栖さんならではの身体性と視点をもって見えてくる郊外、ということですね。

栗栖:足が悪くなってから、郊外に暮らすという選択肢はあるな、と思った。昔はどこにでも地下鉄と電車で行けて、東京の便利さに何の不自由もなかった。でもそれができなくなった今、車社会の郊外の方が住みやすいだろうな、と思います。どこへでも車で行けるし、道も広いだろうし。それは、自分の身体の変化で見方が全然変わった点ですよね。自分のプランに反映されていたかどうかはわからないですけど。

石神:Good Sleep Factory』はどんな風に企画を考えていったんですか?

栗栖:郊外って「個性がない」みたいなイメージがありますよね。だったらひとつテーマを決めて、そのテーマに基づいてまちづくりしちゃえばいいんじゃないか、という発想です。私は「眠り」というテーマを提案しました。みんな「ベッドタウン」ということをマイナスに捉えているけど、「質のいい眠りを提供するまちです」と言われたら、ちょっと住んでみたくなるでしょ。

石神:ブランディング的な視点で、読み替えたんですね。ここでも「身体性」はキーワードですね。

栗栖:これから社会がもっと高齢化して、足腰が悪くなる人が増えると思うと、私の感覚って、多くの人が持つ感覚かもしれないよね。

森:先取りしただけだからね。

石神:今は、まちにフィットする身体性みたいなものが、ちょっとずれているだけなのかもしれない。

栗栖:過渡期な感じもするよね。

石神:それが合ってくれば、けっこう楽しめるのかも。そういう意味で、パフォーミング・アーツの人間が現場に入ってプロジェクトをやるというのは、ある種の必然性があるのかなと思いました。そこにいる人の身体を扱うじゃないですか。

森:どの単位で考えるかでも、結構違うと思うんですよ。神山も、一軒だけじゃなく、エリアとしてデザインされているから成立していることでしょ。郊外も、アパートとかマンションとか一戸建ての話ではなくて、エリアの問題とした時に、どうあるかというデザインの話なんです。その更新をしてこなかっただけだと思うんですよ。更新する中でプレイヤー、住民が変わったりするとも思うけど、「まち」ってそうやって更新していくものじゃないですか。そういう意味で、過渡期なんじゃないのかな、と思ってはいる。

栗栖:だから今、国交省は郊外を問題として扱っているけど、意外と10年後、20年後には、そんなに問題視する必要がなくなっているかもしれないですよね。

森:「今まで価値と思われていたものが、成立しなくなった」ということが、事実としてあるだけで。

栗栖:また別の価値観に、フィットするまちになる可能性はある。

森:神山の大南さんは、“自分たちのまちをどう見るのか”という「フレーム探し」をした人だと、僕は思っている。非常に明快なフレームを探して、それに合わせて設計したところがクリエイティブ。だから「どういうフレームでいくのか」ということさえ共有できれば、どこでも(神山のような展開に)なり得ると思う。

昔つくられたフレームは、度が合わなくなったメガネみたいなもの。それを書き換えよう、ということだよね。その時に、ふたりがやっているまちのいじり方とか、まちへの入り方というのは、何かのヒントになるだろうな、と思って聞いていました。でもそのことに付き合えるほど、住んでいる人が当事者になれるかどうかは、まだわからない。ぜひ、取手でもやって下さい(笑)。

 

photo:伊藤友二(北澤潤八雲事務所)

 

_DSC6386